京都御所とは、桓武天皇により平安遷都(794)が行われた際に造られた「内裏(だいり)」のことです。

当初は現在の場所より西に位置し、天皇の居所である内裏は、延暦年間(782-806)に造営されました。内裏の周辺に「朝堂院」(※1)、「豊楽院」(※2)といった庁舎を置き、全体は築地(塀)で囲み、その囲まれた区域を「大内裏(だいだいり)」といいます。

(※1
朝堂院(ちょうどういん)は、大内裏の中心にあり、正殿の大極殿(だいごくでん)では即位式といった重要な儀式が執り行われていました。(大極殿は、千本丸太町交差点付近にあったと考えられています。尚、朝堂院を約8分の5の規模で復元したものが平安神宮です。)
(※2
豊楽院(ぶらくいん)は、朝堂院の西に位置し、饗宴(客をもてなすための宴会)などに用いられていました。

豊楽院は康平6年(1063)、朝堂院は治承元年(1177)の焼失からは再建されず、次第に大内裏は荒廃していきます。

内裏も度々焼失しており、再建中は公家の邸宅を仮の内裏として利用しました。これを「里内裏(さとだいり)」といい、現在の京都御所は、その一つ「土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)」の後身で、元弘元年(1331)北朝の光厳天皇が里内裏としました。

明徳3年(1392)南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を譲り、自ら退位されることで南北朝は合一し、明治2年(1869)、明治天皇が東京に遷られるまでの間、この場所が皇居となります。

現在の京都御所は、老中の阿部正弘により安政2年(1855)に再建されたもので、寛政期の造営(※)を踏襲しています。

(※)
寛政2年(1790)老中の松平定信により造営された内裏のことです。定信は、裏松固禅の「大内裏図考証」に従い、承明門、紫宸殿、清涼殿などの一部を平安時代の様式で建造しました。

ついべい猿ヶ辻建春門付近

京都御所は南北451メートル、東西249メートルの築地塀で囲まれていますが、京都盆地が南に向かって標高が低くなるため、北端と南端で2.4メートルほどの標高差があり、その差を石積みで補っています。
《右図 上:猿ヶ辻(北東) 下:建春門付近(南東)》

しん殿でん

紫宸殿即位式、節会、朝賀などといった、国家の重要な儀式(大礼)が執り行われていた、内裏の中心をなす建物(正殿)です。

総檜造りの建物で、正面の幅は約33メートル、側面は約23メートルあり、檜皮葺の屋根を含めると、正面は約44メートル、側面は約33メートルに及びます。

主屋の中央には、天皇の御座「高御座(たかみくら)」、そのやや右(東)後方に皇后の御座「御帳台(みちょうだい)」が置かれています。
現在の高御座、御帳台は、大正4年(1915)大正天皇の即位の礼のために造られたもので、今上陛下の即位の礼の際には、皇居正殿の松の間まで運ばれました。

しゅんこう殿でん

春興殿東京に移された、三種の神器の一つ「八咫鏡(やたのかがみ)」を安置していたことから、「内侍所(ないしどころ)」、「賢所(かしこどころ)」と呼ばれていました。

現存している建物は、大正天皇の即位の礼のために造られたもので、大正・昭和の即位の礼の際には、この建物に鏡が安置されました。

参考文献

御所と離宮の栞(宮内庁京都事務所)

文化史07 内裏から京都御所へ - 京都市

『京都御所』(財団法人 伝統文化保存協会)

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