醍醐寺は、真言宗醍醐派総本山の寺院です。

その起源は、貞観16年(874)真言宗の僧である聖宝が上醍醐の地に草庵を建て、自ら彫った准胝観音、如意輪観音の像を納めたことに始まります。
また、『醍醐寺縁起』には聖宝が笠取山(醍醐山)にて翁と出会い、上醍醐の地と醍醐寺の名の由来である霊水を与えられたと記されています。この翁は地主神である横尾明神で、聖宝の夢に現れた渡来の神である清瀧権現とともに醍醐寺で祀られています。

聖宝は修験道の僧であったため、醍醐寺は上醍醐から修験者の霊場として発展していきます。延喜7年(907)には、醍醐天皇により勅願寺と定められ、薬師堂、五大堂が建立されました。

聖宝の死後、弟子の観賢は聖宝の御影を祀るために御影堂を建立し、延喜19年(919)醍醐寺第1世座主に就きます。真言宗の開祖である空海の諡号「弘法大師」は、観賢の奏上によって、醍醐天皇が贈られたものです。

上醍醐の伽藍が整うと、麓の宿坊(下醍醐)にも伽藍の造営が計画され、延長4年(926)醍醐天皇の発願により釈迦堂が建立されます。発願された理由としては、直系の皇子誕生を祈願するためであり、結果、穏子皇后から朱雀・村上天皇が誕生されたとの記録があります。また、延長8年(930)醍醐天皇の崩御により、穏子皇后が主催した四十九日の法要は、この釈迦堂で行われました。
翌年、醍醐天皇の冥福を祈るために五重塔の建設が計画されますが、事業の中心人物であった第3皇子の代明親王の薨去や、他の伽藍の建設を優先させたことにより、完成は村上天皇の御代の天暦5年(951)となります。

文明2年(1470)の兵火により、下醍醐では五重塔を除く全ての伽藍を失い、長らく荒廃しますが、豊臣秀吉による醍醐の花見を契機にして復興していきます。五重塔の修復、釈迦堂(現在の金堂)の再建、 金剛輪院を拡張・整備して三宝院とするなど、これらは秀吉の命により行われました。秀吉は花見の5ヶ月後に亡くなりますが、子の秀頼も如意輪堂、五大堂、開山堂、西大門を再建するなど、醍醐寺の再興は豊臣家の貢献によるものが大きかったといえます。

義演准后と関白秀吉

義演は五摂家の二条晴良の次男として生まれたため、将軍足利義昭の猶子(※1)となり、12歳で入室、14歳で得度し、天正4年(1576)19歳で醍醐寺第80世座主に就きます。

天正13年(1585)兄の二条昭実は、近衛前久の子である信輔と関白の座を巡って争い、2月に関白に就任しますが、5ヵ月で近衛前久の猶子(※1)となり、公家となった秀吉に関白の座を譲ります。秀吉の関白就任の翌日、義演は准后の宣下を受けました。

秀吉の死後、秀吉の側室であった三の丸殿(※2)は昭実の正室として迎えられています。

(※1
(ゆうし)兄弟や親類、他人の子を自分の子とすること。
(※2
織田信長の六女で、醍醐の花見にも参加していました。慶長4年(1599)二条家に嫁ぎますが、慶長8年(1603)に亡くなりました。

醍醐の花見

槍山(千畳敷)慶長3年(1598)3月15日に豊臣秀吉が催した花見の宴のことです。
この花見のために、新たに醍醐山中腹への道を作り、沿道には桜の木を植えられ、茶屋や出店が並びました。千畳敷(槍山)と呼ばれた平地には、花見御殿が建てられました。

花見の前日、義演は秀吉から「来年は上皇・天皇の行幸を仰いで花見をする予定である」と聞かされたと日記に残していますが、同年8月18日、秀吉は伏見城でその生涯を終えました。

三宝院

永久3年(1115)第14世座主の勝覚によって創建された、塔頭「三法院」を起源としています。歴代座主の住房でしたが、度重なる火災によって再建されなくなり、その後は塔頭「金剛輪院」がその役割を担います。現在の三宝院は、その金剛輪院を拡張・改修したものです。

純浄観じゅんじょうかん

千畳敷に建てられていた花見御殿を移築したものといわれています。

唐門(勅使門)唐門(修復後)唐門(修復前)

慶長4年(1599)に造営されたもので、扉に五七桐紋(きりもん)、その両脇には十二弁の菊紋(きくもん)が彫られています。元々、庭園の西側の塀にありましたが、明治になって現在の場所(南側の塀)に移されました。

創建時は門全体が黒漆塗りで、彫りには金箔が施されていたことから、平成21年(2009)の解体修理の際、往時の姿に修復されました。

准胝じゅんてい堂と如意輪堂准胝観音堂如意輪堂

貞観18年(876)に聖宝が建てた草庵を起源としています。
両堂とも度重なる火災に見舞われており、本堂の准胝堂は平成20年(2008)の火災により焼失(※)、如意輪堂は慶長11年(1613)に再建されたものとなっています。また、聖宝が納めたとされる尊像も火災により焼失したと考えられています。

(※)
右上の画像は、昭和43年(1968)に再建された焼失前の准胝堂です。また、この火災により准胝堂で行われていた西国三十三所第11番札所の朱印の授受は、下醍醐で行われるようになりました。

清瀧権現と清瀧宮

上醍醐 清瀧宮拝殿下醍醐 清瀧宮本殿清瀧権現は聖宝の夢に現れた女神で、「唐の都長安の青龍寺を守護していたが、空海の帰国とともに日本に渡ってきた」と聖宝に告げたといわれています。聖宝はこの女神を醍醐寺の鎮守として上醍醐に勧請し、青龍寺から海を越えて渡って来たことから、清瀧権現と名付けました。

上醍醐の本殿は昭和14年(1939)に焼失し、その後、再建されたものです。上醍醐の拝殿は永享6年(1434)、下醍醐の本殿は永正14年(1517)の再建といわれています。

薬師堂

薬師堂保安2年(1121)に再建されたもので、上醍醐の伽藍の中では、最古のものとなっています。創建時に本尊とされた薬師三尊像は、聖宝の弟子の会理作といわれており、現在は霊宝館に安置されています。

開山堂

開山堂観賢により建てられた御影堂を起源としていて、聖宝が埋葬された場所に建てられています。現在の開山堂は、慶長11年(1606)に再建されたものです。義演の『醍醐寺新要録』には、再建時に土中から聖宝の遺骨と思われる骨壷が見つかったため、鎮壇具とともに埋めたという記載があります。

金堂

金堂釈迦堂を起源としており、現在の金堂は秀吉の命により、紀州湯浅(和歌山県湯浅町)にある満願寺の本堂を移築したものです。平安時代後期の建築遺構とされており、移築は秀吉死後の慶長5年(1600)に完了します。尚、堂内に安置されていた仏像も醍醐寺へ移されています。

五重塔

五重塔創建当時のもので、京都府下で最も古い木造建築物です。高さは約38メートルで、そのうち相輪が13メートルほどあります。内部には両界曼荼羅と真言八祖が描かれています。

仁王像と西大門

西大門(仁王門)仁王像は長承3年(1134)仏師の勢増・仁僧によって作られたもので、南大門に安置されていました。慶長10年(1605)西大門が再建された際、仁王像の修理が行われ、西大門に移されました。

参考文献

佐和隆研 『醍醐天皇と醍醐寺』(総本山醍醐寺)

楠戸義昭『醍醐寺の謎』(祥伝社)

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